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薄暗い暁のなか七草をこまかく刻む春を呼びつつ
七草粥が好きである。
寒い大地でいち早く育つものたちを、食すような気がして
どんなに寒くても、これから雪が降ろうとも、春の声がするのだ。
それは巡る季節の力、生命力といっても過言ではないだろう。
未来に夢がもてるから、今が辛くても耐えられるのと同じだ。
終わらない冬はない、春はもうすぐそこまできているはずだから。
重箱で溺れかけてる黒豆を救出にむかう朝だよろこべ
お正月を迎え『おめでとうございます』をともに言いあい
黒豆をつまむことができるのはとても幸せなことだと思う。
そしてもう少しでわたしはひとつ歳をとる。
目元や手元をみれば、まるで下手な黒豆のようにしわが目立つようになった。
ゆっくりと、手間を惜しまずに歳を重ねることを面倒と感じていてはいけないと
思いながら、つい面倒で。。。
いまだ黒豆を煮たことがないが、上手な黒豆のような歳を重ねたい。
コチコチと終わりが終わりはじまったみんなで見つめせーの、おめでとう
すっかりご無沙汰してしまいました。
パソコンも開けない日が多くなり、あれよあれよという間に新年です。
あらためて、おめでとうございます。
少しずつでも再開したいと考え、また私事の理由によりどうやら
今年は波乱含みの予感がするため、短歌や詩を心の拠り所に
できたらいいと思っています。
何卒、今年も宜しくお願いいたします。
横たわり青くしずかな水槽でしゃぼんに吹きこむ内緒話
汗ばむ季節がやってきた。
この暑さも嫌いではない。
ただ今年は部屋をかえたので月あかりを愉しむことができなくなった。
夏ならではの喧噪が窓から忍びこんでくるが夏の夜は静かだ。
音がするしないに関わらずひっそりしているのだ。
まるで太陽に照らされて濃い影をつくるように。
そんな夏が嫌いではない。
しとしとと濡れそぼるのはしかたなし雨に打たれて艶なる紫陽花
艶のあるものは格好がよい。
いつからかそんな風に思うようになった。
男、女に関わらず格好良く生きたいと思うようになった。
それがたとえ他人から見たら格好悪い生き方であっても
わたしの中で格好良ければそれでいい。
どう生きたいかは、やがてどう死にたいかに繋がるだろう。
わたしらしく生きられたらそれでいい。
雨粒をあつめて海をつくります泣けない魚が溺れています
泣くという行為には浄化作用があるのだろう。
泣いてすっきりしたとか、気持ちの整理がついたとかよく聞く話だ。
泣かない生き物、涙を流さない生き物はいるのだろうか?
きっといるのだろう。
涙は流さなくても感情がある生き物ならほかの方法で泣いているのだろう。
泣き方は十人十色、涙を流さずとも泣く人もいると思うこの頃。
たしかです不確かなのはたしかです雨粒ほどにたしかなのです
真実と言われることや、嘘がないであろう言葉をひとは欲しがる。
安心したいがために。
けれどそこにどれだけの意味があるのだろう。
本当のことなんて誰にもわかりはしないのに。
じぶん中の『確かなこと』『嘘のない』気持ちさえわからないのに
他人のことは尚更わかりようがない。
わからないから確かさが欲しくなるのだろう。
けれど今降っている雨のようにひとの思いや気持ちは姿を変える。
たしかさも不確かさもなにもかも飲み込んで雨が降る。
不機嫌なジャングルジムに傘さして水たまりにジャンプする夏
これから梅雨がくるというのに夏が待ち切れず夢想する。
深い緑や濃い影たちを。
ひっそりと音もなく、ただ照りつけるあの暑さを。
夏は生き物すべてがその姿を曝けだすようで力強さと哀しさの
両方を兼ね備えた季節だ。
今年の夏、大きくジャンプすることができるだろうか。
もしもしと受話器を耳にあてたはず、間違えました潮騒でした
来ないはずの電話の音や聴こえるはずのない人の声を聴く、
そんな経験はないだろうか?
名を呼ばれた気がして振り返ったり、着信音を聴いたような気がして
携帯をのぞいたり、そんなことがわたしはよくある。
たいていは弱っている時に限る。
生活そのものに追われ忙しいときにはそんなことを思う暇もなかったりする。
この3月、4月はまさしくそんな忙しい日々だった。
たまには懐かしい人の声を聴いてみたいものだと思うゆとりがようやくできた。
あのひとの吐息はいつも菫です溶けゆく雪の儚さうつし
こどもの頃、すみれはどこにでも咲いている花だった。
密やかにという言葉が似つかわしい、可憐で古風な花というイメージがある。
最近では道ばたや公園に行ってもみることができなくなってしまった。
すみれだけでなく、おおいぬふぐりやつくしなども見かけられなくなった。
花と戯れることのできないこどもにどんな風に自然の美しさや大切さを
伝えたらいいのだろう。
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